Roy Buchanan / Roy Buchanan
『ロイ・ブキャナン』
ロイ・ブキャナン
(1972年)
幾多のギタリストに多大な影響を与えた音楽家、ロイ・ブキャナンのファースト・アルバム。バンドはブルースやカントリーなどのルーツ・ミュージックを淡々と演奏しているが、ロイのギターがそこに新風を吹き込む。フェンダー・テレキャスターの豊穣な音色と深みに酔いしれるべし。代表曲「メシアが再び」「スィート・ドリームス」収録。
ギターは木、ギターは声、ギターは生命
かつて私は、エレクトリック・ギターは金属でできているもの、と思いこんでいた。
赤や青など、原色でペイントされていることが多かったし、私がロックを聞きはじめたころには、いわゆる「ニュー・ウェイヴ・オブ・ヘビーメタル」が真っ盛りで、星形に代表される鋭角的なデザインのギターが大流行していたのだ。見た目も金属っぽいし、音も金属っぽかったから、木製だとは考えなかったのである。
だいいち、マイク(ピックアップ)で音を拾って電気回路で増幅しなければ音を鳴らすことのできない楽器が木でできてなければならない理由なんて、なかなか思いつけないと思うんだけど、どうですか?
ところが、である。
最近はテクノロジーの発達もあるから、ボディが金属でできたギターもイイ音するのかもしれないが、基本的には、エレクトリック・ギターは木製でなければならないものなのである。しかも、部材にイイ木が使ってあればあるほど、イイ音がするものなのだ。
要は、マイク(ピックアップ)で拾う音がイイ音でなければ、電気回路で増幅したところで、イイ音は鳴らないのである。考えてみれば当たり前のことなんだけど、そのことに気づくのに、けっこうな時間を要した。
なぜこんなことを長々と語ったかというと、本稿の主題、ロイ・ブキャナンは、「エレクトリック・ギターは木でできている」ということを感じさせてくれる、数すくないギタリストであるからだ。
かといって、彼のプレイが、アコースティックっぽいとか生音志向だとか、そういうことではない。基本的に彼はゴリゴリのエレキギター・プレイヤーだし、それをウリにしてもいた。エフェクタの類も使っていて、本作のクライマックスである「メシアが再び」には、エフェクタを踏んで音色を変える際に出る「カチッ」という音がそのまま入っている。また、後年のアルバムでは、あきらかに電気的にいじった音色を出すようになっていた。
にもかかわらず、ロイ・ブキャナンが木の音を出す、と私が主張するのは、この人のギターが、異様なほど人間の肉声に近いからである。
エレキギターという楽器は、サックスほど肉声に近い音は出ないし、ピアノほどそっけなくもない。そのちょうど中間ぐらいの音が出る楽器である。先に述べたように、金属的な音色を出すのにも適しているけれども、ロイ・ブキャナンをふくめ、ブルース系のリード・ギタリストは、チョーキング・ヴィブラートを多用し、肉声に近い音色を出すのを身上としている人が多い。
チョーキングを用いたギター・プレイ(スクイーズ・ギターと呼ばれる)の発明者であるBBキングは、自分のギターに「ルシール」という女性の名前をつけている。これも、ブルース系リードギターが泣く・叫ぶ・歌うといった、肉声に近い音色を出すことの証左だろう。
そういったブルース系リード・ギタリストの中でも、ロイ・ブキャナンは特別である。もっとも肉声に近い音を出すギタリスト、といって差し支えないと思う。私が彼を「エレキギターは木でできてることを実感させるギタリスト」と呼ぶのは、その音色が、電気回路を通して出されているにもかかわらず、あまりに有機物的(生物的)だからだ。
アメリカ人のロック・ミュージシャンのご多分に漏れず、彼もまた、ブルースやカントリー、ロカビリーなどのルーツ・ミュージックに囲まれて幼少期を過ごした。
音楽業界に入ったのはCCRやストーンズがカバーした「スージーQ」で有名なロックンロール・オリジネイター、デイル・ホーキンスのバックバンドに加入したのが最初である。ルーツ・ミュージックは彼の体内に、血液のように流れているのだ。じじつ、このファースト・アルバムでも、3コード12小節のブルースや「ヘイ・グッド・ルッキン」など、古き良きスタンダード・ナンバーを取り上げている。
ところが、ここで聞ける彼のギターは、カントリー系・ブルース系のいかなるギタリストとも異なっている。冒頭の「スィート・ドリームス」、もしくはアルバムの末尾を飾る「メシアが再び」を聞いてみればいい。こんな生々しい音を出すギタリストは、ルーツ・ミュージックのミュージシャンにはいないだろう。にもかかわらず、これはルーツ音楽の蓄積の上で鳴らされている音なのだ、という感触がたしかにある。
ロイ・ブキャナンの音楽には、スタイルとしてのイノベーション、ロック的な飛躍はまったくない。その意味では、きわめて素朴な音楽なのだ。にもかかわらず、この人の音楽が独特の質感と深みを持っているのは、とりもなおさず、この人のギターが奏でる音色による。
ロイ・ブキャナンは、新しいギター奏法の発明者だった。ギタリストは誰もかれもが彼のギターを学び、そのテクニックを盗もうとした。
もっとも有名なのはジェフ・ベックのインスト・ナンバー「哀しみの恋人達」だろう(アルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』収録)。ここでベックは、「ロイ・ブキャナンに捧ぐ」というクレジットを入れた上で、「メシアが再び」の音色をそっくりそのままマネて演奏している。
ほかにも、エリック・クラプトンがブキャナンのテープを肌身はなさず持ってただの、ロビー・ロバートソンが聴き狂っていただの、ブライアン・ジョーンズのかわりにストーンズ加入を打診されただの、この人にはじつにはなやかなエピソードがつきまとっている。ミュージシャンの尊敬を一身に集めた人なのだ。
あまり語られないことだが、これらミュージシャンのブキャナンにたいする尊敬は、彼のデビュー前にすでに寄せられていたことを指摘しておきたい。デビューしてみんなが聞いて驚いたのではない。ミュージシャンが密かに聞いていて、その後押しがあってデビューしたのだ。
ロイ・ブキャナンは、いわゆるミュージシャンズ・ミュージシャンだった。しかも、あくまでギター・ヴァーチュオーソとして尊敬されていたので、彼の音楽性そのものが尊敬を受けていたわけではなかった。
作曲の才能があるわけでもなく、歌が歌えるわけでもなく、見た目もドストエフスキーかよ、とツッコミたくなるほどモッサリして陰鬱だから、ミーハー人気が出るはずもない。長らくソロデビューできなかったのは、そのせいだろう。このファーストは1972年の作品だけれど、彼はその10年前にデビューしたビートルズやストーンズのメンバーより、5歳ぐらい年上なのだ。
彼は、その生涯にわたって1曲のヒット曲も持たなかったし、セールス的に恵まれることもなかった。
もっとも、日本のロック・ファンはなぜか昔からスーパー・ギタリストに弱いから、ロイ・ブキャナンは日本ではそこそこの知名度があり、人気もあった。78年のライヴ作『ライヴ・イン・ジャパン』は日本のみでリリースされている(現在は欧州盤のみ入手可能)。
だが、彼の本国での知名度は正直、高くはなかった。それゆえだろう、70年代の後半以降、ブキャナンはアルバムごとに作風を変えるようになり、迷走する。ルーツ・ミュージックに準拠した彼の音楽性が流行らなくなったのも大きいのだろうが、結局、そういった時代の推移にたいして、器用に合わせられるだけの才覚を持っていなかった、ということなのだと思う。かといって、同じスタイルでえんえんとやり続けるほどの図太さもなかったのだ。
ロイ・ブキャナンは最後まで、このファースト・アルバムを超える作品をつくることができなかった。
デビュー前にすでに完成されていた彼の音楽性とギター・プレイは、ここで十全に表現され、あとは拡散していくほかなかったのである。
先にふれた『ライヴ・イン・ジャパン』や『ライヴ・ストック』(74年)などのライヴ作はけっこう良くて、私もずいぶん聴いたけれど、ギターの音色の鳴り・深み・広がりにおいて、このファーストを超えるものはない。そして、彼の特色である生命を感じさせるギターの音色が、もっともバックの演奏に溶け込んでいるのも、この作品なのだ。
おそらく、彼の超絶技巧も、ここで頂点をきわめて後は横ばい、もしくはゆるやかな下降線だったのではないか(もっとも、こればっかりは超絶技巧であるがゆえにどうやって弾いているかわからないので、確証は得られない)。
あまり景気のいい話ではないから省略するが、彼は1988年、とても不幸な死に方で亡くなっている(詳しく知りたい人はこのページを眺めてください。熱心なファンの方による、すごく丁寧なディスコグラフィとバイオグラフィを見ることができます)。死後すでに20年、もともと「知る人ぞ知る」存在だったのが、ますます「知る人ぞ知る」人になっている。死んだからといって伝説化されることも、この人にかぎってはなかったようだ。
だが、ここで披露されたギターの音色だけは、まさにエバーグリーン、永遠に色あせることはないだろう。ロイ・ブキャナンほどに、自分の肉体性をギターの音色に表出させることができるギタリストは、他にない。ギターは彼の声であり、彼の生命であった。このファースト・アルバムを聴いていると、そんな気になってくる。
追記:
マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ディパーテッド』(2006年公開)のエンディング・ナンバーは、本作に収録の「スィート・ドリームス」だった。ロイ・ブキャナンが映画音楽に使われるという事実にも驚いたけれど、スコセッシ監督の豊富な音楽知識にも、今さらながら驚かされた。