Sunday, August 26, 2007

東京の空 / エレファントカシマシ

 1994年発表、通算7枚目のアルバム。エレカシ史上はじめて「丁寧につくりこんだ」感のある作品だが、これが宮本浩次くんのセルフ・プロデュースなのだから恐れ入る。「もしも願いがかなうなら」「東京の空」「甘い夢さえ」「誰かのささやき」ほか、名曲多数。日本のロック史に残る大名盤、と私は思う。



1,宮本浩次=天才説を検証する

 エレファントカシマシの宮本浩次くんを、「天才だ」という人がいる。
 私は必ずしもこの意見に全面的に同意するわけではないけれども、そういう意見が出るのもうなづけると思っている。

 宮本くんはおそらく、日本のロックが生んだ最高の詩人のひとりだろう。たとえば、本作『東京の空』のアルバム・タイトル・ナンバーではこう歌われる。

 ああ街の空は晴れて ああ人の心晴れず
 尽きやらぬ悩み事 何処へやら
 山越えて 谷越えて 人の心晴れず
 
 ああ ぶざまであればあるほどに
 我が身かわいやいとおしや
 山の中深い森の中 古き社のその中は
 眠り続けた願いごと 皆が知ってる願いごと


 これでタイトルが「東京の空」である。
「空」の状態について言及されているのは、冒頭の一句のみにもかかわらず、ここには「空」というものの空間的な拡がり(「山越えて谷越えて」)と、太古より続く時間的な拡がり(「古き社のその中は」)が語られ、結果として、これだけの詩句の中に、「世界そのもの」が歌い込まれてしまっている。その広大な空間の中に、「心晴れず」「ぶざま」「我が身かわいや」な、ちっぽけな人間の姿が対置されているのである。とんでもないイメージの構築力だ。みごとというほかはない。

 歌詞というものは、今私がしているように「音楽を、散文的な言葉をつかって、文学的に表現する」際にきわめて有効なとっかかりになる。だからあえてピックアップしてみたけれども、一方で彼のメロディメイカーとしての才覚も、相当なものがある。
 ちょっとおかしなコード進行、あるいはありふれたコード進行の上に、この人はとんでもないメロディを載っけてくる。それはもう、文字で表現するのは難しいから、聴いてもらうしかないが、けっこう凄いよこの人がつくる歌は。「そこでどうしてそんな展開をする!」とツッコミを入れたくなるようなとんでもないメロディをつくって、しかし違和感がまるでない。

 ボーカリストとしても、これほど独自性にあふれた人はすくないだろう。激情を表現するロックンロール・シャウターとしては日本有数だし(なにしろこの人、むちゃくちゃに声がでかいのである!)、聴く者の心の琴線をはげしく揺すぶる叙情派歌手としての側面も見落とせない。いわゆる「ロック的」巻き舌を一切つかわない、小学生の唱歌のような素直でまっすぐな歌いっぷりは、たしかに人の「急所」をついてくるのだ。母性本能をくすぐられる、と語る女性も多い。

 ついでに言えば、本作『東京の空』は、プロデュース/アレンジ=宮本浩次である。やりすぎちゃって失敗することも多いので、この才覚は無条件にほめるわけにはいかないが、すくなくともこの作品に関しては、宮本くんのプロデュースは完璧と言っていい。音楽のトータル・コーディネイト能力も、人並み以上に持ってるのである。

 これだけの才覚を持っている人だから、「天才だ」という人がいてもおかしくない、とは思う。だが、私がこの人を「ひょっとしたら天才かもしれないな」と思うのは、じつは別の理由による。

 宮本くんは、そりゃもう典型的な、社会不適合者なのである。

 これに関しては、あれこれ述べたてるより、実例を見てもらった方が手っ取り早いだろう。たとえばこれ。エレファントカシマシが往年の音楽バラエティ番組『ラブラブあいしてる』に出演した際の映像である。

 宮本くんは一生懸命話しているにもかかわらず、彼と番組の司会者キンキ・キッズとの間に、マトモな会話はいっさい、成立していない。堂々巡りする宮本くんの話に、キンキの堂本剛くんはロコツに不快を表現しているし、吉田拓郎は「何を話しているかサッパリわかんない」と正直に発言している。この時期、エレカシは積極的にテレビの音楽番組やトーク番組に出演していたけれど、いつもこの調子で、宮本くんの会話能力、ひいてはコミュニケーション能力の欠如はあらわになるばかりだった。
 こういう人はやっぱり、マトモに社会で生きていくのは難しいんじゃないかと思う。サラリーマンはまずつとまらないし、客商売もできないだろう。じじつ、この人はレコード屋かなんかでバイトして、3日でクビになったという「前歴」も持っているのである。ダウンタウンの松ちゃんが、ため息まじりに「きみは他の仕事でけへんな」と語っていたのを見たこともある。
 まあ、バラエティ番組なんてもんはそこで何が話されているかよりも、その場が盛り上がっているかどうかが重要なメディアだから、この人の常軌を逸した浮きっぷりは、見ていてすごく楽しいものではあった。司会者はいい迷惑だろうが。

 天才の定義は色々あると思うけれど、たぶん、「まっとうな社会生活を営めない」というのは重要なファクターのひとつだろう。みずから耳をそぎ落としたゴッホのような苛烈な例を出さずとも、コミュニケーション不全はジミ・ヘンドリックスやプリンスなどの音楽の天才の中に、いくらでも見出すことができる。彼らは多くの場合、その巨大な才能と引き替えに、一般性・社会性を失ってしまっているのだ。
 果たして、宮本くんをジミヘンやプリンスと同列に並べていいもんか。若干の抵抗を感じざるを得ないけれども、彼がそういった音楽の天才たちと同等か、もしくはそれ以上の社会不適合者であることはまちがいない。
 そして、彼の表現はまさしく、「社会不適合者にしかできない表現」だったのだ。すくなくともデビューしてしばらくは。


2,社会不適合者のナルシシズム

 社会不適合者の音楽。本作『東京の空』に至るまでのエレファントカシマシの6枚の作品は、まさにそれだった。

 今さらあらたまって言うまでもないことだけれども、世の中には、ヘンなところ・おかしなところがたくさんある。大は政治経済のしくみ、小は隣人との関係に至るまで、あらゆるものは突き詰めていけばかならずウソと欺瞞に突き当たる。
 多くの人は、そのことにまったく気づかないか、あるいは気づいても気づかないふりをして日々を暮らす。それが「社会に適合する」ということだからだ。だが、社会不適合者にはそれができない。
「ウソばっかじゃねえか。ごまかしてんじゃねえよ」
 そう言って不機嫌にならずにはいられないのである。

 エレファントカシマシの音楽とはそういう音楽であり、彼らの音楽を支持する者も、多かれ少なかれ、彼らと志を共にする者だった。社会不適合者の苛立ち・叫び・つぶやきに、共感を感じる種類の人間が、彼らのファンになったのである。
 当たり前のことだけれども、こうした表現は、大多数の人々の支持を得ることは難しい。しかし、あえてこうした一般性のない表現を選択する者には、圧倒的な強みがあるのである。それは、「自分たちは真理を表現している、もしくはしようとしている」という誇りと矜持だ。あまり指摘したくはないけれど、こうした「誇り」や「矜持」は、「俺たちの表現を理解できないヤツはバカだ」という不遜で子どもじみたナルシシズムとセットになっている。

 ファイン・アートなら、「芸術」なら、それでもいいのである。ゴッホなんざ生きてる間に一枚しか絵が売れなかったらしいし、たしかフローベールだったと思うけれど、「余の芸術は余の死後に理解されるだろう」と語ってそのとおりになったとかいう話があったはずだ。
 だが、ロックは、もっと言えばポップ・ミュージックは、そういうもんではないのである。どんなに優れた表現であろうと、売れなきゃクズとみなされるのだ。言い換えれば、社会不適合者の甘えきったナルシシズムがいつまでも許されるほど、彼らが「敵」とした「世の中」は甘くはなかったのである。


3,追いつめられたバンド、そして『東京の空』

『東京の空』は、エレファントカシマシ通算7枚目の作品にあたり、彼らのエピック・ソニーにおけるラストアルバムとなっている。
 このアルバムの制作当時、彼らはエピックから「この作品が売れなきゃクビだ」と「最後通告」を受けていた。いわば、崖っぷちに立たされていたのだ。
 追いつめられたからこそ、本気になった。本気で「売る」ことを考えた。多くの人に受け入れられるサウンドと歌。この作品は、それを目指して制作されたエレカシ最初のアルバムである。
 結果、本作はそれまでの彼らの作品にあった冗漫さが排除され、独自の緊張感を持った、彼らの最高傑作と呼んでいい作品となった。アルバム冒頭の一音からラスト曲のフェイドアウトに至るまで、一音としてムダな音はないし、駄曲も一曲もない。全編にわたって、開かれた音楽を届けよう、という気概と意思があふれている。
 おそらく、彼らはここにきてはじめて、「プロ・ミュージシャンであること」を受け入れたのだろう。
 曲をつくって演奏して、お金をもらう。お金をいただいた人にサービスをする。それは当たり前のことなのだけれど、彼らはその「当たり前」に疑問を抱いていたのだ。だってそれは、下卑た商人根性以外の何物でもないじゃないか。
 だが、その「下卑た商人根性」こそが、プロ・ミュージシャンの本質(の一部)なのである。

「俺たちはプロだ(商人だ)」
 社会不適合にこそ表現の核を求めていた彼らがそうした決断をするためには、当然、大きな葛藤があったことだろう。理想を売り物にする悲しみと怒り。それがギリギリのところで表現されているからこそ、本作『東京の空』は傑作なのである。

 残念ながら、この作品は彼らが期待したほどには売れず、彼らは通告どおりにレコード会社との契約を切られてしまった。その後1年以上の間、彼らは契約もなく、アマチュア・バンドと同じ立ち位置で音楽活動を続けることになる。
(余談だが、私は下北沢の小さなライヴハウスで、素人バンドを対バンに迎えてライヴをやっていたこの時期のエレカシを見ている。まだリリースされていなかった名曲「悲しみの果て」もこのときはじめて聞いて、こりゃエライいい曲だなあ、と感動したものだ。以来、エレカシが好きだというやつに出くわすと、私は得意げにこの話をするのである)

 その後、ポニー・キャニオンとの契約が決まって以降の彼らの快進撃は、記憶しておられる方も多いことだろう。テレビドラマとのタイアップ曲「今宵の月のように」はオリコンのトップ10に入るヒットとなり、アルバム『明日に向かって走れ ~ 月夜の歌』も大いに売れた(オリコン2位。1位はマライア・キャリーだったから、実質的に1位と言ってもいいだろう)。

 彼らの「売れる作品をつくろう」という努力は、すこし遅れて実ったのだ。


4,世界で唯一の中坊バンド

 最後に、現在の彼らの活動についてふれておかなければならないだろう。
 一時は積極的にテレビ出演をし、エピック時代には決して歌おうとしなかったラブソングを量産して人気アーティストの戦列に加わるべく奮闘を続けていたエレファントカシマシだが、その後ぱったりメディア露出をしなくなってしまう。宮本くんいわく「テレビに出演したりしていると、どうしても集中力を欠いてしまうから」なのだそうだ。
 この頃から、彼らの楽曲はまた、以前のように怒りを剥き出しにしたものに戻っていった。ソフト路線の彼らを見た後だけに、私などは「逆に意固地になってムリをしてるんじゃないか」という気がして仕方がなかったが、これはおそらく、彼らが「彼ら自身」を取り戻すために、必要なプロセスだったのだろう。何をやるのにも極端にふれてしまう不器用なバンドなのである(そこが愛らしいところだけれど)。

 目下の最新作『町を見下ろす丘』は、そうした紆余曲折を経て、彼らがたどりついた新境地を示す作品である。肩の力を抜いた、かといって媚びを売るふうでもない自然な楽曲群は、昨年40歳を迎えた彼らの成長を示してあまりあるものだ。
 そう、40代。彼らももう若くはない。だが、若くはないからこそ、彼らには新しいテーマが与えられているのだ。すくなくとも私はそう思っている。

 エレファントカシマシは、中学時代のクラスメイトで結成されたお友達バンドである。それが40歳に至るまでメンバーチェンジもなく音楽活動を続けているなんて、奇蹟に近いことだろう。世界にも類例はたぶん、ないはずだ。
 中学時代に結ばれた悪ガキどもの絆。当然、歳を経るにしたがって、それは意味合いを変えてきたことだろう。だが、絆は絆として依然として続いている。それは、なんて美しいことなんだろう。私は彼らを心底うらやましいと思う。
 社会不適合者である宮本くんがどうにかこうにか続けてこられたのも、「仲間がいるから」なのだと思う。近年の楽曲「友達がいるから」(アルバム『風』所収)は、そのへんを歌った名曲である。

 歳を喰えば喰うほど、ロック・バンドの道のりは厳しくなる。だが、だからこそ解散せず続けて欲しいな、と思っている。紆余曲折を経て、彼らはようやく、彼らが求め続けた「前人未踏の境地」へと達しつつあるのだから。



 
 

2 comments:

takebow said...

新譜『STARTING OVER』のうち、「笑顔の未来へ」「こうして部屋で寝転んでるとまるで死ぬのを待ってるみたい」「翳りゆく部屋」の3曲を聴きました。ロック魂溢れる作品に感心しております。このアルバムも聴いてみたくなりました。

1TRA said...

takebow師匠、コメントありがとうございます。
師匠のブログにもコメントしましたが、新作は私も大いに期待しております。彼らにはもっと大きいステージで活躍してほしい、と切に願っております。