Wednesday, October 04, 2006

Astral Weeks / Van Morrison

『アストラル・ウィークス』
ヴァン・モリソン
(1968年)

 ワン&オンリーのシンガー、ヴァン・モリソンがゼム解散後にリリースした実質的なファースト・ソロ作。ジャズの即興性を機軸にしたアコースティック・サウンドの上に、ヴァンのこれまた即興性に富んだ歌が乗る。きわめてユニークかつ、奥の深い作品。


モリソン氏と過ごす、天上の日々

 ヘンな音楽である。そして、不思議な音楽である。
 
 かりに、エレクトリック・ギターとベース、ドラムで構成されるビート・ミュージックを「ロック」と定義するならば、これは断じて、ロックではない。この作品にはエレキ・ギターの音はまったく鳴ってないし、なによりこれはビート・ミュージックではない。

 バッキングをつとめるのは、一流のジャズ・ミュージシャンである。代表格は、リチャード・デイビス(ベース、エリック・ドルフィーとの共演で有名)とコニー・ケイ(MJQのドラマー)。やってることも明らかに、ジャズの方法論にのっとっている。
 ヴァン・モリソン自身が弾いていると思われるアコギは、えんえんと単純なコードを繰り返している。その単調な繰り返しの上で、アコースティック・ギター、ベース、ドラム、フルートの即興演奏が繰り広げられる。この即興性は明らかに、ジャズに由来するものだ。

 この「即興性」こそ、アルバム制作時のヴァン・モリソンのテーマだったのだ。それはまちがいない。
 この作品のベース・トラックは、たった一晩で録音されたという。オーバーダブをふくめても、アルバムの制作時間はわずか2日である。当時のロック・レコードは現在と比べて、だいぶ制作時間が短いけれど、これほど短いのは珍しいだろう。
 ヴァン・モリソンは、スタジオに集まったジャズ・ミュージシャンにたいし、いっさい指示を出さなかったそうだ。ミュージシャンのひとりが、「どういうふうに演奏しますか?」と問いかけると、たった一言、「まかせる」とだけ答えたという。
 モリソン自身のボーカルもきわめて即興性に富んでいて、メロディは単純なコードの上で、自在にその姿を変えている(その形がいずれも美しいのが、この人の歌の凄いところである)。
 歌詞もそうだ。おそらくは、かぎりなく即興に近い形でつくられたのだろう。文法も言葉のつながりも意味も無視した、きわめて自由な歌詞になっている。たぶん、推敲もほとんどしていないにちがいない。

 この方法論は、明らかにジャズのものである。
 あまり語られないけれど、この作品はポップ・ミュージックにジャズを取り入れた、画期的な作品なのである。のちにジョニ・ミッチェルやスティングがジャズを積極的に導入して自分の音楽をクリエイトすることになるが、この時代にはまだ、そんなことをやっている人間はいなかった。

 とはいえ、この音楽を「ジャズ」と呼ぶのは、誰しも抵抗があることだろう。なぜって、この音楽は「ジャズ」の一般的なイメージから、まるでかけ離れているからだ(その点、ジョニ・ミッチェルやスティングの「一聴してそれとわかる」ジャズ解釈とは、大きくちがっている)。
 たとえ方法論がジャズであったとしても、この音楽はジャズではない。ヴァン・モリソンの歌と言葉が、これを「ジャズ」と呼ぶことをかたくなに拒んでいる。

『アストラル・ウィークス』は、ジャズでもなくロックでもなく、フォークでもなければソウルでもない、ジャンル分け不能の、「ヘンな音楽」と呼ぶしかない音楽なのである。
 
                 *

「天上の日々」と題された全9曲は、アルバム・タイトルどおり、どこか浮き世ばなれしたところがある。音のひとつひとつが、この世ならぬところで鳴っている。歌っているヴァン・モリソンも、バックをつけているジャズ奏者も、どこか遠く、幽冥境を越えたところで演奏しているようだ。

 アルバムの2曲目「ビサイド・ユー」は、「俺はお前のそばにいる」と繰り返し歌われるラヴ・ソングである。とはいえ、その主人公たる「俺」と「お前」が、果たしてどういう状況にあるのかは、穴があくほど歌詞を見つめてみても、さっぱりわからない。片思いなのか、出会ったばかりでウキウキなのか、エッチした後のピロートークなのか、ふられた男のモノローグなのか。「俺」と「お前」の関係は、一切が不明である。
 だが、歌の中で羅列されるさまざまなイメージと、繰り返される「俺はお前のそばにいる/Beside You」という言葉によって、この曲はあらゆるラヴ・ソングを越えた、真のラヴ・ソングたり得ている。「俺」の置かれた状況がどういう状況なのかはわからなくても、「俺」が「お前」を尋常ならざる熱情をもって愛していることだけは、痛いほどに伝わってくるのだ。

 生きながらにして魂が遊離し、他者の眼前に現れるものを「生き霊」と呼ぶ。魂が肉体から遊離するためには、よほど何かに執着しなければならない。
 この歌における「俺」の「お前」にたいする執着は、まさに生き霊のそれである。「俺はお前のそばにいる」とは、いつ、いかなる時も、お前がどこにいたって、である。どんな物理的障害があろうと、「俺」は距離や時間を超越して、「お前」のそばにいる。もし「お前」がそれを望んでいなければ、とんだストーカーだけれど、愛欲とは本来そういうものだろう。
 ここに表現されているのは、そんな一方通行の・なにかに取り憑かれたような・正気と狂気、あるいは生と死の境界線を越えた意識である。まさに至高のラヴ・ソングだ。

『アストラル・ウィークス』に収録された楽曲は、すべてがこの調子だ。どこかで境界を越え、この世ならぬ世界にのめり込んでいる。なにしろ、アルバムの冒頭は、聴き手を「天上」へといざなう「アストラル・ウィークス」である。
 裏はとれてないけれど、たぶんこれは、ルドルフ・シュタイナーなどの神秘主義者の影響なのだろう。天上への旅立ちとはすなわち、精神世界への旅立ちでもある。
 クラシックの昔から、音楽と幻想は相性が良かった。だが、これほどの説得力をもって「この世ならぬ世界」を描き出した作品はそうそうないだろう。


 ヴァン・モリソンがこういう音楽を演奏したのは、後にも先にもこれっきりだった。この作品がセールス的に惨敗したこともあって、彼はこの後、ニューヨーク近郊ウッドストックに移住、現地のミュージシャンとともに、ダウン・トゥ・アースなソウル・ミュージックをクリエイトするようになる。彼のソロ・キャリアはそこから花開くことになるのだから、路線変更は正解だったというべきだろう。
 だいいち、こんな作品は、当のヴァン・モリソン自身、二度とつくれなかったにちがいない。

 この作品がリリースされた1968年は、サイケデリックの花があちこちで開花した時代である。わけのわからんもの、理屈じゃ通らない表現が、音楽的な冒険として受け入れられた時代だ。即興演奏も一種のブームを迎えており、クリームをはじめとして、即興をウリにするロック・バンドも沢山あった。さらに付け加えるならば、精神世界にたいする興味も、大きく拡大した時代である。瞑想やらヨガやらインドやらが大流行している。
 こうした時代背景と、ヴァン・モリソン自身の表現欲求の高まりが、この類例のない、希有な作品を生み出したのだ。言葉をかえれば、あらゆる偶然と必然が積み重なって、この作品の録音が行われた「一夜」に奇跡的に融合し、「天上の日々」を表現した、ということになるだろう。

 やさしくて自由で、軽やかであざやかで、にもかかわらずどこか不可思議にねじ曲がっていて、でも無上に気持ちいい世界。いつまでもそこにいたいが、そこに留まることは決してできない不思議な世界。『アストラル・ウィークス』はそういう作品である。

 たしか雑誌「ローリング・ストーン」だったと思うが、この作品を評して「史上もっとも売れなかった名盤」と語っていた。さもありなん。こんなもんが売れるはずはない。売れるはずはないが、この作品に出会った私は幸福である。たぶんあなたも。


必聴度 ★★★
名曲度 ★★★★★
名演度 ★★★★★
トリップ度 ★★★★★

Link
ヴァン・モリソンの日本語ファンサイト「Avalon Sunset」
http://www.f3.dion.ne.jp/~avalon/

 全アルバム紹介はむろんのこと、英国の事情通ピーター・バラカンに取材したり、ヴァンの過去のインタビューを抜粋・再録したり、詳細なことこの上ない。日本語で構築されたロック・ミュージシャンのファンサイトの中で、もっとも充実しているもののひとつだろう。ページの隅々に、ヴァンへの愛情がほとばしっている。


No comments: