Wednesday, March 28, 2007

Live At Leeds / The Who

『ライヴ・アット・リーズ』
ザ・フー
(1970年)


前年にロック哲学叙事詩『トミー』をリリースし、絶頂期にあったフーの1970年2月のリーズ大学におけるライヴを収録した実況録音盤。3人の無鉄砲なミュージシャンによるインタープレイと野性味あふれるボーカリストの叫びがつくりあげた前人未踏・唯一無二のロック・グルーヴ。

表現された生命の躍動、春の祭典

 一時期、クラシック音楽にハマっていたことがあった。
 友人にクラシック好きがいたのもあったし、ロック以外の音楽も聴いて見聞を広めよう、という意図もあって、あれこれ聞きかじってみた時期があるのである。
 その頃、クラシック好きの友人に勧められたのがストラヴィンスキーの『春の祭典』であった。たしか、クラシック評論家・宇野功芳先生の著書『クラシックの名曲・名盤』にも、「ロック・ファンには『春の祭典』を」というような記述があったように記憶している。

 だが、とても残念なことに、ストラヴィンスキーにはイマイチ、ピンと来なかったのである。おそらくは「私がクラシックに求めるもの」とあまりに離れすぎていたのではないかと思う。なにしろ、当時、私が好きだった作曲家はベートーヴェンとショスタコーヴィッチだったのだから。

 今思えば、『春の祭典』=激しくてうるさい音楽=ロック・ファンに受ける、という安直な等式も、クラシック・ファンのロック・ファンにたいする偏見がふくまれていたような気がする。ロック・ファンだって、うるさい音楽ならなんでもOKってわけじゃねえだろう。それとも何かい、ロック・ファンにはモーツァルトを理解する繊細な耳なんかあるはずがない、とでも言いたいのかい?

 そんなわけで、『春の祭典』はよくわからなかったのだけど、タイトルだけはすごく印象に残ったのである。「春の祭典」。なんてイマジナティヴな言葉だろう!
 春は生命が躍動しはじめる季節。植物は芽吹き思い思いに花を咲かせはじめ、冬眠していた動物たちは土から出てくる。春は自然界の掟=弱肉強食のはじまりを告げる祭典でもあり、動植物の生殖活動の開始を告げるセクシャルなファンファーレでもある。

 話のマクラが長くなりすぎた。要は、ザ・フーの傑作ライヴアルバム『ライヴ・アット・リーズ』こそが、私にとっての「春の祭典」だと言いたいのである。

 ライヴが行われたのは1970年2月14日。春と呼ぶには少々早すぎるけれど、ここで表現されているのは、まさしく春の躍動感、春の生命のダイナミズムなのだ。よく晴れた春の日になると、私はムショーにこのアルバムが聴きたくなる。


 前作『トミー』は哲学するロッカー、ピート・タウンゼンドの資質を全開にして制作された作品であった。ピートはここで、三重苦の少年トミーの生い立ちを語りながら、「宗教はなぜ生まれるのか」「ロック・スターとは何か」「人が純粋であるためにはどうしたらいいのか」といった哲学的命題をきわめてポエジックに表現している(あまり語られないが、デビッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』は明らかに『トミー』の哲学を下敷きに展開されている)。インド哲学と出会ったピートが思索に思索をかさねてできあがった一大叙事詩が『トミー』だったのだ。

『トミー』は「若者の新しい聖書」とまで呼ばれ、プレスにも絶賛されたしセールスも好調だった。だが、おそらくピート・タウンゼンドには、どこかケツの座りの悪い思いがあったのだろう。「偉そうなもんつくっちゃったけどさ、オレたちゃ芸術家じゃなくてロック・バンドなんだぜ」というような。

『トミー』で得た芸術的評価をあざ笑うかのように、きわめていかがわしい馬鹿ロックばっかり集めてリリースしたライヴアルバムが、『ライヴ・アット・リーズ』だった。現在はピートのマメな編集作業によって、この日のフーの神がかった演奏はそのすべてを聴くことができるけれども、オリジナル・アルバムは全6曲だった。「ヤングマン・ブルース」「サブスティテュート」「サマータイム・ブルース」「シェイキン・オール・オーバー」「マイ・ジェネレーション」そして「マジック・バス」。6曲中3曲が古き良き若者讃歌のカバーであり、残りの3曲はモッズ讃歌と呼ぶべき初期のヒット・シングルだ。「マイ・ジェネレーション」は組曲形式になっていて、途中に『トミー』のテーマを挟み込んだりはしているけれど、基本的に「ロック・バンド:ザ・フー」の姿を活写することにスポットが当てられた作品になっている。

 ここでの演奏がまあ、とんでもない。ピート・タウンゼンドは「ザ・フーのリード楽器はドラムとベースで、ギターがリズム楽器なんだ」と語っていたが、キース・ムーンのドラム、そしてジョン・エントウィッスルのベースのものすごいこと。まさしく、空き地の雑草たちが一斉に繁茂しはじめるような、あるいはソメイヨシノがヤケクソになったみたいに大量の花を咲かせるような、そんな生命の躍動感に満ちあふれている。それは、エネルギーが有り余った若者が暴れ回る躍動感なのだ。
「昔の若者は、デカい顔をしていたんだ。なんてったって男たちの中でいちばん力が強かったからな。でも、今の若者は年寄りにこき使われてるぜ!」という「ヤングマン・ブルース」に象徴されるように、ここで表現されるのは、体に満ちた過剰なエネルギーと、そこから否応なく導かれるフラストレーションを「怒り」という形で噴出させる若者の姿である。ロックの原初形態、と言いかえてもいいだろう。

 メンバーの平均年齢は25歳。じゅうぶん若いが、ここにあるのは若さだけではない。傑作『トミー』をつくり得たという自信と余裕が、「若さ」を確信犯で表現することを可能にしているのだろう。単なる若者には「若さ」は表現できない。「若さ」というものから一歩離れ、外から眺めることができる人間だけが、「若さ」が持つ闇雲なエネルギーをあますことなく表現できるのである。

 ザ・フーの『ライヴ・アット・リーズ』こそは、荒ぶる春の生命の躍動、そのものである。



<写真はリーズ大学におけるフーの演奏写真。英国国営放送BBCのサイトより>




追記:
『トミー』のロック・ミュージカルが中川晃教・高岡早紀主演で現在公開中である。ミュージカルに興味はあまりないけれど、高岡早紀で『トミー』とくると、やはり気になる。じつは、私はフーと同じぐらい、高岡早紀が好きなのだ。