Thursday, May 24, 2007

Volunteers / Jefferson Airplane


『ヴォランティアーズ』

ジェファーソン・エアプレイン
(1969年)

 60年代に一世を風靡したフラワー/サイケデリック・ムーブメントの中心的存在、ジェファーソン・エアプレインのメッセージ・アルバム。ポール・カントナーの左翼指向が全面に展開され、今や完全にアウト・オブ・デイトになってしまった共産主義の理想が語られる。スティーヴン・スティルス、デビッド・クロスビー、ニッキー・ホプキンスが参加。


あなたはこれを笑うのか? 
ならばあなたとは話したくない


 音楽は音楽として楽しめれば良い。社会的/政治的メッセージなんぞを訴えるのは邪道だ、てな意見がある。私はおおむね、この説には同意したいと考えている。
 だがその一方で、音楽を社会的/政治的メッセージに使うという方策は有効だ、とも考えている。今、この世の中が気に入らないなら、変革を歌うのもアリだと思う。そのメッセージにたいして揺るがない確信があれば、音楽も絶対に熱を帯びたいいものになるだろう。

 ナチス・ドイツにおけるワーグナーの使用を持ち出すまでもなく、音楽は人々を煽動する力を持っている。古来、宗教儀礼において音楽が重要視されてきたのも、同じ理由によるものだ。宗教とは、一種の強力なメッセージにほかならないのだから。
 確固とした信念がここにあり、それを多くの人に向けて訴えたいと願うなら、これを使わない手はないだろう。

 ジェファーソン・エアプレイン。60年代後半に人気を博したサンフランシスコ出身のグループである。元モデルの美人ボーカリスト、グレース・スリックを擁し、のちに次々とデビューする「女の子が歌うロック・バンド」のさきがけとなった。音楽的には、サイケデリック・ロックの範疇で語られることが多い。
 代表作としてよくあげられるのは67年発表の「シュールリアリスティック・ピロー」であるが、この頃の彼らは、アルバム・タイトルからもわかるように、きわめて文学的かつ抽象的・耽美的な歌を歌っていた。サイケデリックとは、ドラッグによる意識混濁ないしは意識の変容を、芸術によって再現しようというムーブメントであるが、ジェファーソン・エアプレインはその代表選手として、歌詞もサウンドも文学的・抽象的・耽美的な指向性を持っていたのである。

 だが、その後、エアプレインは次第にその音楽性を変化させていく。デビュー時から彼らのサウンドの特徴だった3人の男女による混声ボーカルは、より複雑な絡み合いを聞かせるようになり、ビーチ・ボーイズやCSNに代表される整然としたボーカル・アンサンブルとはまったく異なった独自性を発露しはじめる。
 また、のちにホット・ツナを結成するギタリストのヨーマ・コーコネンおよびベーシストのジャック・キャサディは、随所でイキイキとした躍動感あふれるジャム演奏を聴かせるようになる。
 そして、なによりも大きく変わったのは、彼らの詩の世界だった。グループのリーダー的存在であり、ソングライターのひとりでもあったポール・カントナーは、その一風変わった作曲手法に磨きをかけるとともに、当時隆盛をきわめていた左翼運動にのめり込んでいった。初期の彼らに顕著だった文学的・抽象的・耽美的な指向性は後退し、かわって全面に出てきたのは、マルクス主義思想を背景とした理想主義である。

 本作のアルバム・タイトル「ヴォランティアーズ」は字義どおりに「ボランティア=無給で働く人」を意味している。これが体制批判/資本主義社会批判とセットで語られれば、おのずから意味合いは定まっていく。

 さあ、おれたちの時代がやってきた(革命だ、革命だ)
 マーチを奏でながら海まで進め(革命だ、革命だ)
 おれたちは自分が誰だかわかっている
 おれたちはアメリカのボランティアさ
           (Volunteers)

 アメリカという国のために、無給で働く。そのメッセージはそのまま、アメリカのために「有給で」働く人々――政治家や官僚、軍人などにたいする批判、ひいては「カネのために働く」資本主義体制そのものにたいする批判となっている。
 むろん、こうした思想が全面に打ち出された背景には、長期化し泥沼化するベトナム戦争があった。毛沢東の「造反有理」ではないけれど、アメリカ政府のやってることがムチャクチャだったから、反抗する側にも確固とした「正義」があったのである。

 エアプレインはデビュー当時から、ヒッピー/フラワー/サイケデリック・ムーブメントの中心的存在として、反戦運動と体制批判を活発におこなっていた。だが、政府のやってることにケチをつけるだけなら、誰でもできる。マトモな感性を持っていれば、そこから一歩進めて、「じゃあ、俺たちは今の世界を否定して、どんな世界を指向するんだ?」という問いに向き合わずにはいられないだろう。
 時代は60年代。「プロレタリア独裁」が甘美な理想として語られた時代である。その問いに回答を与えるのは、決して困難なことではなかった。

 理想世界構築の夢を高らかに歌いあげる男女混成の3声ボーカル、天空を駆けのぼるかのようなヨーマのファズ・ギター、大地を揺るがすがごとく深く潜行するジャックのベース・プレイ。ここで表現されたサウンドのすべてが、理想に向かっていこう、新しい世界をつくろう、という希望に満ちている。すくなくとも、この作品をつくった当時、エアプレインは理想を信じていたのだ。だからこそ、この音楽は現在でも掛け値なしに美しいし、力強い。

 私たちは今、「理想」のうさんくささも、「希望」の実効性のなさも知っている。だが、それは私たちの不幸ではないのか。情況にたいしてシニカルになることがクールだなんて、いったい誰が決めたんだ? 絶対におかしいじゃないか。

 本作のオープニング・ナンバーの「ウィ・キャン・ビー・トゥゲザー」は、ほとんど牧歌的ともいえる世界観を歌うメッセージ・ソングである。

 わたしたちは一緒にやれる
 あなたとわたしはひとつになれる
 壁を叩き壊そう
 やってみようじゃないか
   (We Can Be Together)

 これを聴くたび、私は涙が出そうになるのである。なんて素晴らしい曲だろう、と思う。笑いたくば笑えばよい。あなたの冷笑よりも、エアプレインが掲げた理想や希望のほうが、100倍美しいと私は信じているから。

 残念ながら、エアプレインはこの後、その飛翔を徐々に失速させていく。デビュー時から優れた楽曲を提供していたボーカリストのマーティ・ベイリンは、ポール・カントナーのラジカルな政治姿勢に嫌気がさし、「ヴォランティアーズ」のリリース後にバンドを脱退する。ヨーマ・コーコネン、ジャック・キャサディもより自由な演奏形態を求めて、ホット・ツナを結成、エアプレインを離れた。そして、ポール・カントナー自身も、のちに「政治なんてもんにうつつを抜かすのは時間のムダだ」と発言、この時代の活動にたいして、反省と悔恨をあらわにするようになる。

 とはいえ、この作品で描かれた理想は、いささかも古びない。なぜなら、ここには確固とした信念と、それを実現しようとする熱意が表現されているからだ。



追記1:
 ジェファーソン・エアプレインは断じて日本での人気が高いバンドではないと思うが、すくなくともネットでの支持は熱い。日本語のファンサイトもいくつかある。なかでもこのサイトはエアプレインからジェファーソン・スターシップへ、そしてしょーもない産業ロックになり果てた(ジェファーソンなしの)スターシップ、続いてエアプレイン再結成へ、ときわめてややっこしい歴史をたどったこのバンドの紆余曲折をきっちり紹介している。人の出入りが多いバンドだけど、そこもしっかりフォローし、メンバーのソロまで押さえたディスコグラフィもきわめて的確で親切だ。しばらく休止されていたブログも近日再開とのこと。楽しみである。


追記2:
「ヴォランティアーズ」にはクロスビー・スティルス&ナッシュのファーストアルバムのハイライトとなった「木の舟」が収録されている。これはカバーではなく、「木の舟」はもともと、クロスビーとスティルスにポール・カントナーを加えた3名の共作曲なのだ。CSNもむろんいいけど(その素晴らしさはここで述べている)、こっちも捨てがたい名演だ。